母国日本に与えられる天の願いは実に大きい。津波のように押し寄せる摂理の前にただ呆然と立ち尽くすのみの場合もある。しかし、長く責任者をしていれば、一つ一つの天の願いに条件反射的に反応できるようになるものである。それでもそこに込められた意義と価値を見いだし、自らが納得した土台を作り上げ、その上で教会員の前に説明し、理解して頂くことを通して、より前向きに、より積極的に感謝して取り組んでもらえるようにと努力する。
説明し難い度重なる摂理であるが、私は一つ一つが試験(中間試験や期末試験)であるように思える時がある。試験をクリアーしていくためには、信仰生活という試験勉強が必要であり、より質の高い信仰生活(試験勉強)は摂理(試験)に臨む自ら自身を助けることとなる。その中間試験や期末試験をよく越え、積み重ねた土台があってこそ、やがて高校入試や大学入試に合格できるようになっているのだと思う。『実力のない者が訳のわからないままに、言われる如くに頑張っていたら、いつの間にか天一国入籍の為の資格を取っていた』ということになるのかもしれない。
牧会者職を命じられて12年、この間、様々な摂理に対して来た。そして、そこに臨む教会員の姿も拝見させていただいた。簡単ではない摂理(試験)の前に自己正当化して逃げ出したり、真摯に向き合えなかったり、信仰生活という精誠をつめなかったり、結局は自分自身の将来に大きなマイナスになっているということを悟らなければならない。一概には言えないが、また、客観的で実に申し訳ないが、普段の信仰生活の正否が重要摂理に様々な心情や結果として現われることが少なくないと感じている。
試験合格には普段の積み重ねの勉強が必要なように、摂理対応も普段の信仰生活が必要であることは間違いない。そして、摂理の濃さ(試験の重要度)も積み重ねがなければ理解し難い事もあるのかもしれない。私は摂理責任者として常に全力投入すべき立場であるから、常に重要度を強調せざるを得ない。時にそれは、まるで“狼少年”ように見えることがあるらしい。「今回の摂理は、・・・・重要です」と毎回そうなるのであるから・・・。
だいたい積み重ねる試験が重要でない試験などはない。やがて訪れるであろう高校入試、大学入試にプラスにならない中間試験や期末試験、学力試験、模試などはない。結局は真剣になって勉強した者勝ちであり、素直な者が最後には勝利者となれる確率は高いのかもしれない。そうは言っても摂理には絶対外せない摂理があるように思えるのは事実である。
日本人の信仰は、よく御利益信仰だと評される。見返りを求める信仰観である。「これをすれば、こうしてもらえる」という価値観だ。人参をぶら下げられなければ動かない、走らない馬のように例えられる。実際そのような教会員も多く見受けられるし、そのようにしなければならない指導者も問題なのだろう。いつの間にか「今度は何をいただけるのかですか」「今度はどこに名前が刻まれるのですか」という声もある。これは大きな問題だ。そしてこのような堕落性を握って摂理を引っ張るのも問題だ。
摂理の前に優劣はない。神様と真の御父母様の前に感謝して臨むのが正しい摂理観である。神様に見返りなどを要求できるような我々ではない。ただ純粋な気持ちで敬意と感謝を表すべきだ。その点で考えてみれば、昨年の金婚式や今回の古希祝賀は、神様と御父母様にどれほど感謝し、敬意を表している者であるのかを自己判断できる絶好の機会であろう。特に今回は『神様の結婚式』とまで言われている。6000年間待ちに待った神様の喜びを知るものであるなら心情が先立ち、摂理どうのこうのではなく「お祝いしたい!」という心が爆発するべきなのが信仰者の姿なのではないかと反省する。
刻銘されるから頑張る。入籍条件だから頑張る。何々をもらえるから頑張る。摂理に同参する動機は様々に発動するものであるが、ただ神様と真の御父母様の御苦労を労い、勝利を賛美し、純粋なる子女の心情で見返りを求めない摂理同参が必要な古希祝賀摂理ではないだろうか。このような摂理同参を外してしまっては永遠の後悔になってしまうと私は感じている。摂理は十羽一絡げの同様なものではない。これは絶対外せないもの、真剣に考え勝利しなければならないものがあることを長年の摂理責任者の経験から感じてきた。古希祝賀は絶対外してはいけない最重要AAAの摂理である。

