「良心の呵責」という言葉がある。自分自身を厳しく叱りつけるという意味である。自責の念に苛(さいな)まれ、苦しみ続ける状況が思い浮かぶ。誰が責めているわけでもないのに自分自身が自分を赦せないでいる。我が内にあって、悪しき思いと行動を赦すことができない良心とは何者なのだろう。良心を持ち続けるべきなのか、捨て去るべきなのか。人は思い悩むことがある。
良心を捨てれば、我が身は邪心に支配される。邪心の支配者、主体は悪魔であることを人間は認識している。それでは我が良心の主体はどのような存在なのか。神であることを疑う余地はない。神という無形の存在を見失う時、我が良心は機能を失う。無形の悪魔はその瞬間を見逃すことはない。我が邪心に語りかけてくる「そのくらいは大丈夫だよ。みんなもやっていることだよ・・・」。邪心は体を支配し、自己中心的に行動させ、気が付けば取り返しのつかない状況へ。不幸(悩み、苦しみ)への始まりだ。
私たちの体を動かす主体は心だ。だが私たちの心は、残念ながら良心と邪心という二つに分類される。時には良心で、時には邪心で体を動かそうとする。邪心を中心にして体を動かしたとしても喜びが生まれるだろうか。邪心を発露として勉学に励み、有名大学で学び、知識を得、知恵を振り絞ったとしても良きアイディアが浮かぶだろうか。邪心には、神は一切関与することができないのだ。ただ悪魔のみが関与する。邪心の正体は自己中心的心、恨み、憎しみ、責任転嫁・・・である。憎悪を全面に生きて何の得を得ることが出来るだろう。
幸福の原点は「良心的生活」だと考える。良心は誰にでも備わっている。しかし、神を見失ってしまえば良心は機能しない。眠り続けたままだ。神の存在、神の世界(霊界)の存在を教えることこそ良心を覚醒させ、良心的生活へと導き、幸福な人生へと人々を昇華させる秘訣であると思う。神を否定し、宗教を排斥してこの世が平和世界になることはない。特別な信仰を持つ必要もないだろうが、神と霊界(永遠の生命)への正しい認識が必要であると考える。人間にしか出来ない「祈り」の境地を失ってしまえば、動物的人間になってしまう気がする。

