独り言&ひとり言
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  • 管理人の一人が徒然なるままに書下ろす自由な言葉。中には多くの人々の思いを代弁するかのような内容も・・・。時には毒舌も・・・。勘違いなのか、それとも的外れなのか、独りよがりなのか・・・。それを決定するのはあなたです。
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    「良心の呵責」という言葉がある。自分自身を厳しく叱りつけるという意味である。自責の念に苛(さいな)まれ、苦しみ続ける状況が思い浮かぶ。誰が責めているわけでもないのに自分自身が自分を赦せないでいる。我が内にあって、悪しき思いと行動を赦すことができない良心とは何者なのだろう。良心を持ち続けるべきなのか、捨て去るべきなのか。人は思い悩むことがある。

    良心を捨てれば、我が身は邪心に支配される。邪心の支配者、主体は悪魔であることを人間は認識している。それでは我が良心の主体はどのような存在なのか。神であることを疑う余地はない。神という無形の存在を見失う時、我が良心は機能を失う。無形の悪魔はその瞬間を見逃すことはない。我が邪心に語りかけてくる「そのくらいは大丈夫だよ。みんなもやっていることだよ・・・」。邪心は体を支配し、自己中心的に行動させ、気が付けば取り返しのつかない状況へ。不幸(悩み、苦しみ)への始まりだ。

    私たちの体を動かす主体は心だ。だが私たちの心は、残念ながら良心と邪心という二つに分類される。時には良心で、時には邪心で体を動かそうとする。邪心を中心にして体を動かしたとしても喜びが生まれるだろうか。邪心を発露として勉学に励み、有名大学で学び、知識を得、知恵を振り絞ったとしても良きアイディアが浮かぶだろうか。邪心には、神は一切関与することができないのだ。ただ悪魔のみが関与する。邪心の正体は自己中心的心、恨み、憎しみ、責任転嫁・・・である。憎悪を全面に生きて何の得を得ることが出来るだろう。

    幸福の原点は「良心的生活」だと考える。良心は誰にでも備わっている。しかし、神を見失ってしまえば良心は機能しない。眠り続けたままだ。神の存在、神の世界(霊界)の存在を教えることこそ良心を覚醒させ、良心的生活へと導き、幸福な人生へと人々を昇華させる秘訣であると思う。神を否定し、宗教を排斥してこの世が平和世界になることはない。特別な信仰を持つ必要もないだろうが、神と霊界(永遠の生命)への正しい認識が必要であると考える。人間にしか出来ない「祈り」の境地を失ってしまえば、動物的人間になってしまう気がする。

    | 2011-05-17 | 独り言&ひとり言

    1941年4月1日、文先生は初めて日本に入国されました。表向きは早稲田大学付属高等工学校で学ばれるためでありました。しかし、内的には真理の完全解明のための留学でもありました。原理の重要な部分は、この留学中に解き明かされています。大韓民国独立のために地下活動の責任者でもあった文先生は、常に公安警察からマークされ、たびたび拷問にあったことも私たちは知っています。その時、流された血の一滴、一滴が日本の統一教会復興の原点であり、私たち一人ひとりは、文先生の血の代価としてこの教会に導かれてきたという教育はそのとおりだと思います。

    60年代、70年代には幾度となく日本にご入国された文先生ですが、1970年代後半からは公式的入国はなされていません。冤罪性の強い13ヶ月のダンベリー収監と多くの訴訟問題が日本への入国を阻んでいると言われていますが、それは建前で、外務省のトラウマが文先生の入国を難しくしていると聞いたことがあります。祝福活動を一切しないとして入国許可を出したはずなのに、1800組のマッチングを行ったことが発覚し、入国許可を出した外務省のメンバーが責任を取らされ左遷されたとか・・・。どこまでも保身的な官僚にとって身の上に降りかかる火の粉は振り払わなければなりません。本当ならば残念なことです。

    しかし、私たちは責任転嫁も自己正当化も出来る立場ではありません。私たち自身が心から真の御父母様のご入国を強く、強く願い続けてきたかと本心に問うて見なければなりません。御父母様揃ってのご入国は、私たち統一食口の天運と母国の天運守護に大きく関わる内容だと思います。私たちの心の復興や生活の復興のみならず、日本の安定はご入国にかかっていると信じます。1992年3月26日に入国され、31日出国以来、約20年間、日本に降り立つことはありませんでした。今回の大震災をとおして何より悔い改めなければならないのがこのことだったと今更ながら気付かされます。

    大震災によって疲弊した母国の再興を懸けて、2013年1月13日までの天一国創建母国使命完遂をかけて、私たちは天運を引き寄せるべく真の御父母様の20年ぶりのご入国を現実にするべき時を迎えたように感じます。人々の手によって街は再興されていくでしょう。私たちは祝福家庭、統一食口にしかできない本質的な天運守護の観点でこの国を再興へと導くべきだと思います。真の御父母様に委ね、真の御父母様を頼ることしか出来ない幼い者であることを自覚し、しかしながら、お迎えできる基台を私たちの精誠でしっかりと造成してまいりましょう。

    | 2011-03-29 | 独り言&ひとり言

    2000年前、イエス様は人類を恒久的平和と幸福へと導くための秘密を解き明かしました。イエス様はイスラエルを収拾した後、“すべての道はローマへ通ず”と謳われた世界の都ローマへと進出し、イエス様の人類救済の教えはローマ哲学、ゾロアスター教、仏教、儒教へと融合され、全人類の救済へと結実されるはずであったのです。その教えの根幹が「神と人間は親子!」でありました。父母なる神を見失い、当てもなく幸福を求めさまよい歩く人類に対してイエス様は、正しく神と人間の関係を解き明かす責任と使命があったのです。

    しかし、イエス様は私生児であり、学歴もなく、職業的にも軽蔑され、生まれは「ナザレに何の良き者が生まれよう…」と蔑まれた場所の出身でありました。そんなイエス様の幼少時代の悲惨さは言葉に表すことはできなかったでしょう。聖書には出世時の秘密は記されていても、幼少時の愛らしい姿がどこにも記されていません。愛らしいとは程遠い悲惨な姿のイエス様であったが故に、神様は親として記録することができなかったのです。そんなイエス様が「自分は救世主である」と目覚めた瞬間があったはずです。そして、悠久なる歴史の真実、不幸の根本原因を悟り、過去と未来のすべてに責任を背負われようと決心された瞬間があったはずなのです。

    生まれながらに救世主・メシヤとしてのイエス様ですが、12歳までには自分の責任と使命を知ったといえます。ルカ福音書第2章41節前後を拝読してみれば、確かにイエス様は12歳までに「神様が私の父である」と認識しています。神と人間が親子・・・、当時の人々には到底理解できないことでありました。イエス様の素性が解らない時には、その子供の受け答えに感嘆しましたが、しかし、私生児だ、学歴が無い、大工のせがれ、ナザレ出身…、知ったその後からは誰がまともにイエス様の話を聞いたでありましょう…?

    イエス様の基台、助けとなるべき土台はユダヤ教でありました。救世主としてのイエス様はユダヤ教の祭司、律法学者、パリサイ人などの上層階級らによって受け入れられなければなりませんでした。アブラハム以降2000年間、様々な訓練と試練、迫害を越えて選民思想、メシヤ思想で結束していたイスラエル民族(ユダヤ人)でありました。そしてモーセ以降の1000年以上に及ぶユダヤ教の歴史は、メシヤであるイエス様に連結されるべきものでした。ユダヤ教を土台としながらローマへ、ヨーロッパ各地へ、中東へ、極東アジアまで愛の教えは拡がらなければならなかったのです。

    しかし、肝心要のユダヤ教とイスラエル民族がイエス様を受け入れることができませんでした。拒絶したばかりではなく十字架へと追いやってしまいました。ユダヤ人の歴史が悲惨を極めるのはここに原因があります。イエスは40日間の霊的復活の最後に「私はまた来る」と言い残します。雲に乗ってくるのでしょうか…? 洒落にもなりません。イエス様はマリアから誕生したのです。再臨されるイエス様も女性の腹から誕生するのです。しかしその時、2000年前のように過ちは繰り返されるのかもしれません。

    イエス様は異端と呼ばれました。イエス様は悪霊の頭と言われました。イエス様は社会悪と言われました。イエス様は社会混乱を招いたとして十字架で死刑になりました。神様によって準備されたユダヤ教指導者や有力者がそのようにしたのです。再臨の時には、キリスト教こそが最も神のみ意に反してしまう可能性があることを恐れるべきです。2000年の伝統はキリスト教のためにあらず、再臨のキリストのためにあることを忠告しておきます。文鮮明先生の91年の生涯を真摯に研究すれば何が真実か見えて来るでしょう。

    | 2011-03-07 | 独り言&ひとり言

    罪を犯していないのに不当なる刑に服しなければならない冤罪が時にクローズアップされる。今現在も冤罪被害者として苦しむ人々がいる。冤罪という大きな事例だけではなく、社会には誤解と偏見が渦巻いている。伝えたくても伝わらない真実の声。一方、偽りと欺瞞を繰り返しながらも堂々と生きる人々もいる。解決されない凶悪事件が多くある。人は何ゆえ罪を犯し、偽りを行い、平気で人を傷つける歴史を繰り返すのか・・・? その答えは難しくなかった。“誰にも知られない。ばれない。”という心理があるからだ。

    幼い頃、母はよく言っていた。「神様が見ているよ・・・」。脅しのようなその言葉が、時に良心の呵責を蘇らせ、心と行動を正さなければならなかった事が少なくなかった。悪はいつの日にか白日の下に曝される。その心を失ってはいけない。しかし、現実の社会では、悪を行っても時効を迎える事件もあり、悪を行っても裁かれない事例もある。果たして彼らは得をしたのだろうか。

    高度な信仰を持つ者たちは、ハッキリと知っている。霊界という次の世界があることを・・・。生命に終わりは無い。心(魂)の世界は永遠である。地上での生活は、霊界(永遠の世界)に直結し、地上で誤魔化すことが出来た総ては、霊界で白日の下に曝される。偽りを隠し通すことは出来ない。人間は、いつからか永遠の生命(霊界)を見失ってしまった。それゆえ、刹那的で短絡的な人生、いい加減な地上生活(肉体生活)となって現われるようになったように思う。

    永遠であればこそ偽りの無い人間関係を創らなければならない。明日別れるような人間関係では、大切にしようという心が湧き出ずるだろうか。好きであろうが、嫌いであろうが、出会った関係は、またどこかで出会うのだとすれば、いい加減に接すことは出来ない。罪を犯すことが出来ない。傷つけることは出来ない。心に抱いた真実や偽りの総ては、この地上で明らかにされなかったとしても、霊界では必ず明らかにされるのだ。誤解を受けていてもその誤解は解かれる。偏見も解かれる。逆に偽りは暴かれ、罪は罪として償わなければならない時が来る。それが人間、永遠の生命。正しく生きる努力、正しく悔い改める姿勢、一人ひとりが、私の生命が永遠であることを理解できれば、この世界は天国への一歩を記すのかもしれない。霊界という永遠の世界があることを歓べる者か否か、自分自身をチェックすべきだ。

    | 2011-01-10 | 独り言&ひとり言

    悩み苦しみ、疲れ果てた末に多くの方々が自殺を選択する。3万人は下らない年間の自殺者。地球上ではいったいどれくらいの人が自殺していくのだろう。自ら死を選んだところで何の解決策にもならない事を知りながら、しかし、それを選択するするしかない人々に、どのようにその選択を思い留まっていただけるのか。唯一、“生命が永遠である”ということを知っていただく以外に道はないのかもしれない。

    心と体。人間はこの2つから成る存在である。そして、心は主体であり、体は対象だ。心の命令で体は動くのだ。自殺の要因の多くは、体の苦痛ではないようだ。心の痛みに耐え切れずに多くの人が自ら死を選択する。肉体は生きるという機能を停止したとしても、心(精神)という存在は時空を超越して永遠に生き続けることを見失ってはいけない。苦しさから解放されたいとして死を選択したとしても、肉体が無くなっただけで、心(精神)は生き続け、苦しみから解放されることはない。

    例えば失恋の苦しみで自殺する女性。勿論、体の苦痛ではなく心の苦痛がどれほど大きいことだろう。肉体があればこそ、失恋の苦痛を埋めるために旅にでる事が出来よう。また新しい恋愛をし、心の傷を埋める可能性も生まれよう。例えば借金苦で自殺をする人々。心が永遠であることを知れば、自殺したとて借金苦という心の苦痛は消えることはない。かえって、肉体を失うことで永遠に借金苦から解放されるための努力するというチャンスを失ってしまうのだ。心の苦痛がどんなに大きいとしても死を選んではいけない。肉体が存在することで未来にチャンスが生まれるのだ。諦めてはいけない。

    “一寸先は闇”などとマイナス的な発想をするよりは、闇の向こうの希望の扉・夢の扉をこじ開ける諦めない強い心が必要だ。急がなくともその時(死)は必ず訪れるのだ。死を急ぐ必要はない。生きていればこそ希望と夢は未来につながるのだ。肉体があればこそ“一寸先は光(希望)”なのだ! 

    | 2011-01-05 | 独り言&ひとり言