歴史を通じて正しく生きようとする者たちの前に、神は無力に思えた。平和と幸福、平等と安らぎを願っても、それらは一部の横暴で不正に満ちた者たちに踏みにじられ、都合の良い者たちにしか与えられないように見えた。正直者が馬鹿を見て、不誠実な者が得をしているような歴史が続いているかに見えた。「神に祈ったところで何が変わるのだろうか・・・。」そんな疑問を持ったとしても不思議ではない。神の存在を熱く語る宗教は、熱く語れば語るほど、かえって正直に生きる者たちと神の間に摩擦を生じさせた。皮肉にも、正しく神の心情と事情を紹介できない宗教の無力さが、人間と神の間に大きな距離を生じさせたのだ。そして、人間中心主義(ヘレニズム運動)を生み出す原因となっていく。神を否定する思想(唯物思想)は、平和と幸福に関して頼りにも当てにもできない神と、神を利用し、私腹を肥やす者たちからの脱却でもあったように思う。共産思想は、神抜きの平等思想であり、神を無視した共存共栄主義を求めた。しかし、それは極めて高い利他主義思想を持つ者たちが成しえる理想世界への挑戦でもあった。
良心(利他主義)と邪心(利己主義)を併せ持った人間どうしが平和を維持するのは至難の業といえよう。まさに一人ひとりが心に神(絶対善・絶対愛)を具えて生きないかぎり成立はしないように思う。兄弟間の平等は、真の愛と絶対的善に満ちた親がいてこそ永続されるのであり、クラスにおいての平等も真の愛と絶対的善に満ちた先生がいてこそ成立するのだと思う。そして何よりも、お互い同士が隣人のための幸福を第一に願うという超高等的価値観を共有し、実践できなければならない。実に高度な倫理観、道徳観が要求されるのだ。この高度な倫理道徳観は、高度な宗教的センスが発露であると思う。つまり宗教性を無視をして共産主義の成立は有り得ない。人類が共産主義を叫んで出発するには、少し早すぎたのかもしれない。
兄弟の親だといわれた者がいつしか独裁者となり、信頼厚いクラスの先生がいつの間にかひいき目を持ち、横暴と不正を働く者となり、お互いが自己中心的に自分の事だけを考えるようになれば、共産主義理想は崩壊してしまう。共産主義の最大の敵は倫理道徳の退廃であり、宗教弾圧は人々から神性としての倫理道徳観をも奪う共存性の矛盾を秘めるようになった。一方で人類は、誰もが平和と幸福を目指し、自由・民主・資本主義という兄弟間の競争システムを造り上げた。まるで終わりなきマッチレースのような世界。片や社会・共産主義という競争原理のない、あまりにも高度な共存共栄主義である理想的世界を目指すシステム。マッチレース(自由・民主・資本主義)は勝者と敗者を生み出し、貧富を拡大させた。片や良心(利他主義)が成熟しないままでの社会・共産主義は、人間から努力と活力を奪い、いつしか不自然な独裁者を生み出す土壌を拡大させていくになる。

